3月11日、東北太平洋大地震によって被災しました。(大きな被害はなし)
僕自身は仕事中でした。急にいろんな人の携帯電話から普段聞かないようなサイレン音。
緊急地震速報でした。
すぐに揺れが来ました。急いで建物の外へ出る。しかし、逃げている途中も真っすぐ歩けないほどの揺れで、ふと道路を見ると大型のトラックが今にも倒れそうなくらいに左右に揺れていました。
かなり長い時間揺れていました。その間も立っているのも大変なくらい揺れ続け、しゃがんでいると後ろのほうから大きなドーンという音が聞こえました。
駐車場の一部が崩れ水路に落ちていました。
ようやく揺れが収まったと思ったら、またすぐに来る強い余震。
震度7だったと知ったのはその後でした。
その日から始まった停電、水不足、食料不足、ガス不足、ガソリン不足、灯油不足。
家に帰り、すぐに暖をとる準備を始めました。宮城県はまだまだ寒いんです。
ありったけの毛布を準備し、ろうそくに灯を付け、ラジオからの情報を頼りに被害状況を確認する。誰とも連絡を取れず不安な毎日。
特に不安だったのは、兄ちゃんの家族の事です。
兄ちゃんの家族は陸前高田市に住んでいました。
ラジオからの情報でも壊滅的な被害だということは知っていました。
連絡が少しずつ取れるようになった頃、横浜に出張中だった親父から電話があり、
「テレビで見る限り陸前高田市の被害は大きすぎる。最悪の事態も覚悟しておけ」
と連絡がありました。
兄ちゃんと奥さんと生まれたばかりの子供。三人の安否確認出来ないことが家族を一層疲労させました。
その後、兄ちゃんから電話があり、
「大船渡市の勤務先にいて無事だった。でも、奥さんと子供の確認は出来ていない」と。
ラジオから流れる安否確認のメッセージに耳を傾け、いつか名前が出るのではないかと信じていました。それぐらいしか情報を得るものがないので。
後日、奥さんから電話があり、奥さんと子供の無事が確認されました。
「あと1〜2秒遅かったら津波にのまれていた。住んでいた所は跡形もない」と。
それから今まではガソリンの確保です。ガソリンスタンドには長い列。
開く予定もないガソリンスタンドにも長い列。
しかも、開いたと思ったら、入れられるのは多くても20リッターまで。
今もその状況は続いてます。
・・・とまぁ地震発生から現在まではこんな感じです。
今回被災して感じたのは、被災地の情報源が少なすぎるという事。
情報源はラジオのみ。
電気がないからもちろんテレビは見れないし、新聞もガソリン不足で届かない地域があったり、紙面自体が情報少なかったり。
こういう時こそ情報が必要で、情報がないことで不安が増える。
それから、もう一つ感じたのは、日本人の性質の凄さ。
おそらく海外の治安の悪い地域などでは普通に窃盗やら強盗やらが多く発生してもおかしくない状況だったと思います。
でも日本人はそんな事しないんです。すばらしい。
「被災地のために、今自分が出来ることからやりましょう」
ってよく言うけど、その通り。特に経済に関してね。
被災地は普通に仕事することも出来ないし、これから復興に向けて長い日々が始まるわけなんで、被災地じゃない所は自分たちの仕事を精一杯やってもらって日本経済全体のために消費して貰えばいい。間接的でも被災地のためになるので。
いい加減自粛とかしてないでパーッと使ってもらったほうがいい。
最後に、津波で亡くなられた方にご冥福を申し上げます。
また、現在も避難所等で生活している津波の被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。
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